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HOME > 随感集(鍼灸の黎明)

6.鍼灸は何故東洋医学か? 
    国民は東洋医学が治らないと思っている

鍼灸は何故東洋医学か? 国民は東洋医学が治らないと思っている 
 鍼灸界で不思議に思うことがある。鍼灸界の指導的立場の方の発言の冒頭に、「鍼灸は東洋医学である」とその名称自体が偉大性を証明しているかのような言葉が多く聞かれることである。従って鍼灸は東洋医学であるから権威ある医学であると言い、鍼灸師、鍼灸学生を酔わせるようなコメントが続くのである。
 果たして鍼灸は東洋医学なのだろうか?それは我田引水ではないだろうか?単に病者の体に鍼をするといっても、様々な理論に基づく刺針がありうる。刺針行為がすべて東洋医学とはならないことは当然である。この発言からは、東洋医学理論に基づかない鍼治療は低級であるという独善とその名称を権威化しての便乗が感じられるのである。
 
 ここで振り返ってみたい。逆論である東洋医学は果たして偉大なのか?
我々鍼灸師はもう自問自答する時期が来てもよいのではないだろうか?近年、国民の鍼灸効果の認識とともに東洋医学自体が医学として色あせてきたと思うのである。
 一般の国民、医師たちはどのように東洋医学をとらえているのだろう。主にその鍼灸を中心に考えてみたい。まず医療現場の医師たちはどうか。東洋医学に関心がある医師は全体のほんの一部に過ぎない。湯液については、確かに病院医療でも近年大きく普及したことは周知のとおりである。しかし、日本全体の医療からしたら、これも簡素化したエキス剤の使用でじゅうぶん間に合っている。
 更に鍼灸ではそれ以下の関心しか持たれていないはずである。例えば入院患者を往診したとき、担当医は同じ医療者としての情報を鍼灸師に提供するだろうか?
 では一般の国民はどうか? 健康を損ねたとき鍼灸院に行く人は、全体から見たら極めて少ない。約1時間も治療時間がかかって、4,000円、5,000円の料金では健康で収入があるときでもなければやたらかかれず、多くの障害が楽にはなっても治りきるまでの長期にわたる通院には耐えられない。国民医療としての主役にはとてもなりきれていないのは中国の中医薬学院の大学病院でも似たところが見られ、その施設全部が中医学で使用されてはいないようである。
 
鍼灸のすべてが東洋医学とは言えない 
 鍼灸は東洋医学であるという決め付けは、なんの権威を主張するものでもないと考えている。なぜなら、治療効果を上げる鍼灸治療のために、我々、半身症候鍼灸法を実践する臨床家が東洋医学理論を排除する必要を説いているからである。自己の感覚による見えないものを見ようとせず、触れないものを触ろうとしないで古典理論に依存する臨床によって、どのような効果が期待できるのか?
 解剖学的組織、臓器の正常・異常を的確に判定する診断法を所有しない鍼灸理論の脆弱性を正視しているからそう言えるのである。古典鍼灸理論を否定する動きは、現在ほとんど消失してしまった。我々のように脱古典理論などと言うと目くじらを立て憎悪の眼差しを向けられるが、戦後の一時期、古典派と科学派との経絡の存在を真っ向から争う経絡論争があったのである。それは不完全燃焼のまま終焉を見た。そして現在では経絡否定論者は全く市民権を得られない肩身の狭い存在となっている。
 科学派にしても都合よく、古典理論を適度に導入して、鍼灸界全体がみな仲良しになってしまった。この状況が鍼灸の進歩と言えるのだろうか?業界全体がすべてにおいて競うことをやめたら、それは退行と思うのである。
 半身症候鍼灸法では、基本的に古典理論を排除し、更に病院医療理論を踏襲することも避けている。それは医学理論の下に行なわれている病院医療には、診断面で医学的にも多くの誤りが見られるからである。いま、「古典に還れ」の声が鍼灸界で聞かれるとき、我々は脱古典を標語にしている。
 我々は古代中医学史上に現れる扁鵲の医療を目標にしているのである。古書の記述に「ある仙薬を飲んで壁を通して人体内が見えるようになった。だが、人には脈を見てそれを知ったと話した」と言う。
 我々は、脈を診るなら、その本体である心臓の動きを触らず知ることで、手に触らず脈を診るということを目標としている。更にこの言葉からは、理論はその人のレベルにあった表現しか受け入れられないことが古代から変わっていないことも知るのである。
 我々は古典理論以前の扁鵲治療を目標として実践し、指導している。臓象学説より内臓、骨格系等の解剖学的組織を扁鵲的透視面から微細にとらえた鍼灸治療を進めているのである。